細長い腹部と折りたたむことのできない羽、
そして大きな複眼を持つ昆虫である。
本邦に住んでいてトンボを見たことがない
というのは非常に珍しい。
それだけ一般的な虫である。
本邦の古称に秋津洲というものがあるが、
この秋津とはトンボのことだ。
といっても、トンボが多いためではない。
神武帝が山頂から見た国土がトンボの
ようだったのだと日本書紀に書かれている。
トンボは益虫である。
古事記にもそう書いてある。
雄略帝の腕を刺そうとした虻を
さっと食い殺したのだという。
実際のところ、
水棲の幼虫は水質を維持し、
成虫になると害虫を食らうため、
特に水田と相性が良い。
地に這いつくばることなく、
後ろに進むこともないため、
不退転の戦士として武士たちにも好まれた。
あまり必要はないが、実際には
その気になれば後退もできる。
トンボの飛行能力は凄まじく、
前後左右上下動が思いのままなのはもちろん、
空中停止が可能というヘリコプター並の
細かな機動が可能だ。
また、飛行速度、飛行距離にも優れており、
四枚ある羽のうち一枚ぐらいであれば
失っても飛ぶことが可能である。
動体視力も素晴らしく、恐らく彼らの目には
蠅など止まって見えているのではないだろうか。
肉食性のトンボは空中で他の虫を捕獲する。
足は歩くのには適さず、
獲物を抱え込むことに特化した形状を持つ。
ここまでトンボの凄い点を挙げてきたが、
残念な部分もある。
動体視力は凄いのだが、ものの識別能力は低い。
このため、高速で動くものをすべて
羽ばたくものだと認識し、獲物、ライバル、
天敵、異性のいずれかと誤認する。
このため、扇風機のファンや
電動のこぎりに突撃し、
バラバラになることがある。
小石を結び付けた紐を振り回して上空へ投げると
獲物だと思って飛びかかり、
紐に絡まって落ちてくる。
昔はこの方法で子供たちがトンボ獲りをしていた。
なお、トンボは漢字で蜻蛉と書くが、
同じ字でカゲロウとも読む。
トンボとカゲロウは別の虫だが、
昔は同じ虫だと思われていたのだ。
ヨーロッパではドラゴンフライと呼ばれている。
改めて言うまでもなくドラゴンは
キリスト教では敵対者の象徴である。
魔女の針という呼び名もある。
キリスト教以前からの俗信として、
その剃刀のような羽によって切り裂かれる、
その針のような胴体によって刺される、
あるいは口を縫い付けられると思われていた。
他には悪魔の乗り物であったり、
目をくり抜いたり、邪悪な蛇の治療をしたり、
耳を切り裂いたりする。
とにかく不吉な虫として嫌われていたのだ。
未だにトンボが刺す虫だと
思っている者は少なくないらしい。
ちなみに、漢方薬の材料にもなる。
黒焼きにしたものが精力剤となるとされる。
もちろん、そんな効果はない。
食用とする地域もある。
本邦では冒頭に挙げたように敬愛されているため
食べる文化は無い。西洋では前述の通り
恐れられているため食べる文化は無い。
華南や東南アジアではトンボ食文化がある。
もっとも、可食部や集めやすさの点で、
珍味の域を出ないようだが。
成虫は胸部以外は食べる価値がないが、
胸部は甘みのあるエビのようで美味だと聞く。
塩茹でがいいらしい。
幼虫であるヤゴはエビより美味いと
言う者すらいる。
素揚げがいいらしい。
唐突に思い出したが、
露草という青い小さな花がある。
子供の頃、どういうわけか
トンボがこの花を食うという
常識がまかり通っていた。
私もトンボを捕まえては露草の花を
トンボの顔に押し付けたものだが、
実際にがしがしと食らう。
抵抗のために噛り付いていただけのようだが。
調べてみると、やはり昔の子供は
トンボが露草を食うと信じていたようだ。
今考えると不思議である。